2013年7月4日木曜日

【2013/06/25】創造と、何かを共有するということ

どうも森です。正直に書きます。
ブログを更新できずにいるうちに本番が終わってしまいました。

本番の日付のブログでまたあらためて御礼申し上げたいと思いますが、ご来場くださった皆さま本当にありがとうございました。
おかげさまでとても達成感のある上演となりました。



さて、それでは稽古を回想しつつブログをしたためていきたいと思います。



これまでのブログでもお分かりいただけるように、呼吸らの稽古場では「ケミカルダンス」「ドロップ読み」を筆頭に意味不明な言葉が飛び交っています。

ただ、これは呼吸らに限ったことではなく創造の現場とりわけ集団創造の現場ではよくあること。
最近は教育現場で演劇が活用される機会が増えていて、その際によく「コミュニケーション能力」という言葉で効果が語られたりしていますが、もともとcommunicationはラテン語のcommunis「共有のものにする」が語源で、いうまでもなく親戚にはcommunityがいます。
うんちくはさておき何の話がしたいかというと、稽古場にそこでしか通じない言葉が飛び交っているということは、そこにいる人びとが作品創造を通じて言葉にされた何らかの「共有のもの」を獲得して一種の共同体となっているということに他ならないのではないか、という話をしたいわけです。

もう少し平たく日本語らしい言い方をすれば、呼吸らは「ケミカルダンス」とか「ドロップ読み」とか言いながら何かを共有しているわけですが、一体何を共有しているんでしょうか。
それはまあ、例えば「ケミカルダンス」なら「あるダンスの振付を共有している」といってしまえば勿論それはそうなんですが、でもやっぱりそれだけではない気がする。なぜなら「ケミカルダンス」って普通に考えたら意味の分からない言葉だから。意味が分からないのにそのままになっているのは、表面の字面では分からないことがその言葉を使っている人たちのあいだでは共有されているはずだから。

とはいえ呼吸らが一種のcommunityとして共有しているものの正体を言い表すのは決して簡単なことではないでしょう。むしろ不可能で、どこか野暮で、そもそもひとつではなく、際限なく増え続けている気もします。

そのような営みは、そのまま『星座から見た地球』という舞台の内容にも当てはまるように思えます。登場人物たちについて観客のみなさんがはっきりと合理的に了解できることはあまり多くないかもしれませんが、ぼんやりと経験的に共有できることは少なからず散りばめられているはずです。



0 件のコメント:

コメントを投稿