2013年3月27日水曜日

【2013/3/25】C.T.T.振り返り

3月25日は稽古というより話し合いでした。
内容はもちろんC.T.T.の振り返りと、6月本公演に向けた今後のこと。

まず、公演を終えてみてのそれぞれの感想を出し合うところから始まり、そこから6月の公演はどんなものにするかという議論へ。スケジュールや役割分担を経て、最終的にテーマが決定。ちょっとしたアイディア出しをして終了しました。

なんかコワいひとがいるよう!

以下、みなさんの発言を追ったメモを掲載します。
(本当は要約しようかと思ったのですが、面白かったのでほとんど全部公開しますね)


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【反省会、振返り】

きく:自分が見えているとか知っていること以上のものや価値を見ようとする力みたいなものが養われた。日常でもモノの見方が変わった。コミュニケーションツールとしての言語についても、条件を狭めたら(目が見えない、耳が聞こえない、など)いろんな有り様があることが見えてきた。言葉や言語から生み出されるものがもっとあるのかなと思った。

がくりょう:「演じることについての考察」。今までやってきた表現方法とはちがうパフォーマンスを体験したが、これまでの自分のやり方に引っ張ってしまい、得られることが得られなくなりそうだったので、自己流の理解ではなく言われたことをなるべくそのまま受け入れられるようにしないといけないと思った。

うらせ:こういう芝居は面白いと思った。連鎖、増幅など、いろんな発見があった。普通は言葉を間違えてはいけないなど制約があったりして緊張してしまいそうだが、このやり方ならのびのびとできると思った。ただ、上演中、共演者の出す音や声に気づくことができていなかったことにYoutubeを観て気づいた。

いまき:やってみて面白かった。今まで違う頭の使い方をした。ウォーリーさんの言うこと(考えずにやる、など)がうまくできなかった気がするのは自分の課題だと思った。

ようこ:今木に同じく、やってみて楽しかった。みんな子供のようだったし、自分も本当に子供のように遊んでしまったけど、はたしてよかったんだろうか?(と思うくらい楽しかった)

やこ:すごく楽しかったけど、自分の内面と対話することが多く、自分について新たな発見が多かった。本番も楽しかったけど、やりきれていない自分がいたなあと。衝立の裏のシーンについて、かなえさんたちと振り返ったとき、自分は表面的・即時的にしかやりとりしていなかったことに気づいたりした。結果的にウォーリーさんの意図とは逆に頭で考え過ぎていた。

かなえ:台詞を覚えない芝居を初めてやってみたので新鮮だった。台詞を覚えようとしている他のメンバーを見て、「大変やなあ」と思いつつ、自分としてはすごく気が楽だった。それは変な(余計な)気合いやスイッチが入らなかったし、いいことだったなと思った。

さえこ:もっとできたんじゃないかという思いは単純にある。周りがやることをどれだけ受け止められるか、その状態をつくらないとなあと。見に来た子がすごく手厳しい意見を言ってきた。「面白くなかった」「いらいらした」「全体が同じに見える。関係性がばらばらだから」「緊張感がない。つくったものをひとに見せる態度じゃない。お金や時間をとって見せる態度じゃない」「観察力がない」「遠慮しているような感じがあった。あの場を壊すような何かがあってもよかった。全員が迷っているように見える」「子供のイメージが昭和っぽい」「全然はじまっていない。6月に間に合うのか」その感想(全体が同じに見える)を聞いて、この方法論には多様性があると思った。同じ方法論で別のヴァリエーションができないものかと思った。

でん:個人的には台詞を入れなきゃいけないというプレッシャーもなかったし、自然に舞台に出て行けたかなと思った。ただ実際のところはお客さんの反応が得られなかったし、あの距離で上演しているのに手応えが得られなかったのは、お客さんの気持ちの中までは入れていなかったのかなと思った。でもみんなのびのびやれていたし、そういう作らない演技ができたのはよかったと思った。さえちゃんから出た「昭和」ということでいえば、もう少しそこを強調してもよかったのかなと。そういう意味ではちょっと味気なかったのかもしれない。

てい:みんなからはわりと「難しかった」という意見も出ていたけど、私は結構いきいきできた気がしている。「考えない」ということでやったけれど、自分はひらめきも考えることのひとつだと思っている。同じ「考える」ということでも論理的な思考とひらめきの違いがあるとは思う。「岳良のシーンを音楽的に」という指示についてなど稽古外でもいろいろ考えたし、稽古や上演中に考えないためには、そういう稽古外で考えるなどの準備が必要かなと思った。今後もこの方法でやっていくなら「飽きないようにやるにはどうしたらいいか」ということが課題になると思っている。

あおき:もっと、ずっと見ていたら子供に見えてくるかも、と思った。劇場で見ていて、ラストシーンが美しかった。

ウォーリー:今回お金をもらってやった公演だったけれど、「演劇をつくること」と「公演をすること」はやはり違うので、6月に向けてまずその話を。「ゼミのようなかたちで進める」と言ってスタートして、自分としては「演劇をつくること」をやっているつもりでCTTまでやってきたので、個人的にはここから6月に向けて突然「公演をすること」(つまりは興行をすること)に切り替えるのはすごく反対ではある。あるいは(身内の達成感で完結するような?)成果発表会のように位置づけるのもこれまでの方向性がズレてしまう気がするので、すごく気持ちが揺れている。ただ、実験的なことをやって終わってしまうのも……という気もしている。とはいえ、公演を成立させるためにできること(お客さんをたくさん呼ぶなど)は全部やったほうがいいとも思っている。つまりモチベーションとして成果発表会ということで甘んじたくはない。
CTTでやったような実験的な方法論をやりたいならやったらいいとは思っていて、結果としての動員やお客さんの感想はあまり関係ないとは思っている。

かなえ:アクターズラボの理念にあるような「観るに耐えられない芝居をしない」ってことですか?

さえこ:公演や芝居はお客さんがいて成り立つものだから、自分たちのできること・やりたいことの範囲で終わらず、「見る・見られる」という関係を成立させるってことが大切にしなきゃいけないことなのかなと思う。

かなえ:このメンバーで普通に楽しめる芝居をつくることは簡単。でもそのことに意味はあるのか。

ウォーリー:稽古で得られることのほうが大きい場だなと思っていて、心のどこかで「なんで観客に見せなきゃいけないんだろう」と思っているところがある。ただ、こういう仕事をしてきているし、公演をするとなると興行として観客を楽しませるためのスイッチが入ってしまうと思っていて、いまいち整理ができていない。

やこ:今回実は身近なひとたちを誰も呼ばなかった。家族に対してさえ「来なくていい」と。なぜなら、普通のひとたちは普通のお芝居を求めるだろうから。だから今のウォーリーさんと同じように迷っていた。今まではわりと厳しいタイプの観る側だったから、今回も観る側だったらすごく怒っていたと思う(実験的なものは自己満足に見えて嫌い)。やっぱり面白いものが好きだし、誰かを誘うことを考えてみても「ここが面白いよ」って言えるものをやりたいという気持ちがある。

きく:興行をするにあたって、無報酬でやるのと報酬をもらってやるのと、どう違ってきますか?

~森が何か発言して、誰かの質問があって話題がチケットの話に~

あおき:チケット代は映画と同じ1800円です。学生は1500~1300円だったかな。

きく:高槻でやっているので、高槻のひとを呼びたい。

やこ:でも高槻市民に観てもらうなら、もっとわかりやすいものじゃないとダメだと思う。

あおき:ちなみに10月のごまさんの公演ではクラスのひとが呼んだお客さんでほとんど客席が埋まった。あんまり自分の知らない人がお客さんになるとは考えてもらわなくていい。

がくりょう:僕個人としてはすごく実験的なことをしてみたい。ちがうやり方でつくったものでも、いつもと同じところに持って行ったら(内容的な着地点が突飛でなければ、というニュアンス?)お客さんもそんなに戸惑わないと思う。そういう好奇心はみんなはないのかな、とも思う。わかりやすいものについても一長一短だと思う。期待したものと違ったけどすごいって思うお客さんもいるだろうし、維新派を観てストーリーがなくても面白いと思う人もいるし、全員がいいと思うものはないと思うし、とにかく僕は実験的なことがしたい。

さえこ:お客さん全員が面白いと思わないかもしれないと思いつつ、でもやってやるかっていう、それでも自分たちはこれがしたいしやるんだっていう怖さは持っていないといけないと思う。そういうことを乗り越えてこそ強い作品がつくれると思う。

いまき:自分は普段お金をとって公演をしていないので、金額設定って何なのかなあと。チケット代って何にもとづく金額設定なのかなあと不思議に思ったりする。

ウォーリー:今回については予算的なことで決まっているわけですよね。でもまあ普通は利益計算があって決まってくる。

いまき:今回に関してはあまりチケット代のことを前提にして考えなくていいんじゃないか。

かなえ:結局はみんなが面白いと思えるものがつくれれば、自信をもってお客さんも呼べるし、それでいいんじゃないかと。

きく:高槻ラボというのは守られたパッケージだし、そういう意味では実験的にやっていいんじゃないかと思う。

てい:10人観て10人が面白いというのは無理だろうし、賛否両論で半々になったり、いろんな感想が得られるような作品になったらいいと思う。

ウォーリー:結果として「すごい作品をつくろう」というモチベーションに上がっていくことになるだろうとは思っているんですけど(それは僕にとって当たり前にやってきた「いつものこと」だし)、僕はあんまりそういう意識で来てなかったわけで、どっちかというと参加メンバーがどういうことを面白いと思っているかに興味がある。だからそこにお客さんという新しい人たちが入ってきたときにどうなるのかなっていうところで、モヤモヤしている。

~休憩~

【スケジュールについて】

~本番までの日程をホワイトボードに書きだしました~

ウォーリー:僕がいなくなるまで12回か……よし、公演をしよう。

みんな:えー!

ウォーリー:CTTでやったものを使っていきます。テキストは『星座から見た地球』を使います。この本の文体(雰囲気)、単語といったものは基本的に拝借してやっていきますが、物語は使わないでオリジナルのものにしていきます。ただ、この本がやっぱりいいなあと思うのは、ひとつはご縁として福永さんが来てくださって「全然違うものになることを期待しています」と言ってくださったこと。そこに感謝してつくりたい。それから今日ずっとストーリーラインとか物語という言葉が飛び交っていましたけど、この本のいいところは勝手にストーリーをつくっていけるところだと思っていて、だから「星座」なんだと思うんですけど、(星を線で結んで勝手に星座をつくるみたいに)お客さんが自分で自分なりにストーリーをつくれたらいいなと思っています。
アンサンブルとしての場面(CTTの方法論)と、パーツとしての場面と半々くらいで構成しようと思います。

~ウォーリーさん、ホワイトボードにスケジュールを書き込んでいきます~

4/1 パーツづくり
4/8 パーツづくり
4/15 パーツづくり
4/17 パーツづくり(30パーツ完成目標)
4/22 アンサンブル
4/24 アンサンブル
4/29 アンサンブル
5/1 プロット完成、場面を整理して並べていく
5/6 場面を整理して並べていく
5/8 場面を整理して並べていく
5/15 台本書いてくる
5/20 半分くらい出来上がる
5/27
6/3
6/10
6/12
6/17 第一回通し
6/19
6/24
6/25
6/26
6/27
6/28 仕込み
6/29,30 本番

【公演に向けた役割分担】

・宣伝(でん、いまき、てい)
チラシ納品は4月15日。何か企画があれば、ひとまずリストアップ。(他のラボクラスの参加者への宣伝など)

・小道具(きく、がくりょう)
追々、作品が見えてきたら予算に合わせて買いに行ったり、みんなに呼びかけたりしながら取りまとめしていく。

・衣装(ようこ、さち)
追々、作品が見えてきたら美術プランなどに合わせて取りまとめしていく。

・音響(うらせ)
稽古場で必要になった効果音の収集。選曲もする?(1930~1950年代のジャズ中心?)

・ホームページ(ヤコ、かなえ)
チラシ納品に合わせて特設ページを開設。その他、企画を立ち上げて実施?

・演出助手(さえ)
森と一緒に内容の記録をとってウォーリーさんに連絡。

【ふたたび公演の話…】

ウォーリー:僕がどうして(作品の中心、あるいはパッケージとしての)台本を用意しなかったかといえば、みんなの出自がバラバラだったから。逆に台本があると悪い意味でそのバラバラさが出てしまう。それでアート博でやったアンサンブルの手法をつかってやってみた。それぞれのいたフィールドや背景や感覚がうまく作用するようにするようにやった。だから岳良が気にしていたようなことはそんなに問題ではないと思っている。自分の課題として持っていてもらえれば。

~みんなから出た振り返りをさらに振り返り。共有するかたちでクリアされたこともあれば、共有できずにクリアされたことも……~

テーマ(キーワード):星座
「観客が勝手にそう思うように」芝居をつくれたらいい。
観客のなかに物語が芽生えるような芝居。
観客が勝手にそう思うような地図をつくる。

ウォーリー:どうしたらできると思いますか?ひとり一個ずつ出してください!

がくりょう:主張し(すぎ)ないことが大切(「子供を演じます!」とか言わない)
いまき:意味を持たせない
てい:共通する主題やヒントを盛り込む
かなえ:あえて喋らない(台詞に頼らない)
でん:見た目、衣装をそれらしくしない(無機質にする?)
きく:自分を意識しない
さえ:関係性や関係からつくる
うらせ:できるだけノイズをたくさん出す(理性的に、客観的に)
がくりょう:完全に意味がわからないものにしない
ようこ:本気であそばないようにします……(ウォーリー:音で会話する、とか/てい:感情だけで会話する、とか)
ウォーリー:見えそうで見えない舞台美術
やこ:でんさんとの最初のシーン(いまの自分の年齢の人間として登場してから子供にもどった過程が好き)
かなえ:強烈なインパクトではなく、心の片隅にひっかかるような小道具やモチーフを使う
さえ:沈黙をどうつかうか

【来週】
みなさん『星座から見た地球』をひと通り読んできましょう!
何か分からないものが主役(でも途中で分かるひともいるかも……)のシーンをつくろう!
アイディアを持ち寄って、グループ分けとかして、つくってみます。

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タイピングが追いつかなくて抜けている話もありますが、それでも興味深い話がいくつもあります。みなさん視野が広いというか深いというか……。

上記のように来週からはまたクリエイションとなる予定。
どんなことになるやら、楽しみです。




2013年3月25日月曜日

【2013/3/18】C.T.T.本番が終わりました

C.T.T.本番が終わりました。
ご来場くださったみなさま、ありがとうございました。
ありがとうございました。
このブログの読者のみなさんはご存知のように、今回のC.T.T.で呼吸らは『子供を演じることのいくつかの考察』という作品(というより、“試”作品といったほうが正しいかも?)を上演しました。

お客さんの反応は実に賛否両論。「よくわからなかった」「ついていけなかった」という方もいれば、「出演者がエネルギッシュで楽しそうだった」「いろんなことを考えさせられた」という方もいたようでした。上演後の合評会でもさまざまなご意見ご感想をいただき、本当にありがとうございました。

今回の公演は『子供を演じることのいくつかの考察』というタイトルにもあらわれているように、「演じる」ということについての自己言及的・自己省察的な上演となりました。つまり、今回は演劇を上演することによって演劇について(なかでも特に「演じる」ということについて)考えてみた/考えてもらった、というわけです。
劇中、「子供を演じるということ」について考える浦瀬さん
そんな上演でしたから、ほかならぬ僕自身も本番が終わってから随分いろんなことを考えさせられています(もともと考え込むと止まらないタイプなので、なかなか大変なことになっています)。ただ、これはこれで上演への応答として間違っていないだろうという思いもあったりしているので、今回のブログは上演を終えて僕が書き留めたメモをちょっと直して転載させてもらおうと思います。
いってみれば「『子供を演じることのいくつかの考察』のいくつかの考察」です。

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演劇で「演じる」というのは、多くの場合、物語の登場人物として行動することを指す。なぜなら多くの場合、観客は「物語を楽しむ」ことを至極まっとうな楽しみ方だと思って演劇を観る。だから物語の世界をより「本当のこと」らしくするために俳優は「自分は登場人物とは別の人間である」ということを観客に感じさせないようにする。そしてそれが成功していると、俳優はその登場人物を「上手く演じた」と称賛されたりする。

つまり、多くの場合、観客は演劇という方法で表現された物語を楽しんでいる。だから俳優が「演じる」ということを観客に感じさせなければ感じさせないほど、観客にとっては好都合だということになる。

ところが『子供を演じることのいくつかの考察』には「本当のこと」らしくするべき物語がほとんどない。これは「物語を楽しむ」ことを至極まっとうな楽しみ方だと思っている観客にとっては、はなはだ困ったことだ。舞台にはただただ子供を演じようとする俳優のすがたとそのガイドラインとなる断片的なテキストしかない。気分的にはゴールのないサッカーやバスケットの試合を見るのと近いかもしれない。

じゃあ呼吸らはどうしてこんな意地悪で不親切な上演をしたのか。もっとシンプルに面白い物語を演劇でやったらよかったじゃないか――。そういう意見があったとして、それはそれで正論だと思う。でもちょっと乱暴な気もする。大切なのは勝ち負けだからサッカーでもバスケットでも同じだというのはあんまりだし、大切なのは物語だから演劇でもテレビドラマでも同じだというのもあんまりだ。

だとしたら、演劇という方法で物語を表現することはいったい何がおもしろいのか。そもそも俳優が別の誰かを「演じる」ということはいったいどういうことなのか。
そんな思いで呼吸らとウォーリーさんは物語をいったん取り外し、演劇という方法だけを舞台上に投げ出してみることにしたのだろうし、その際にあえて「演じる」ということを観客に感じさせざるをえない「子供」という題材を選んだのだろう。
物語を取り外して、ただただ「子供」を演じています
「子供」という題材が「演じる」ということを観客により感じさせるのはなぜかといえば、大人の俳優がどんなに子供を「上手く演じた」ところで、観客がその俳優を本物の子供だと思うことはまずないからだ。本物の子供と大人である俳優には少なくとも見た目のギャップがはてしなく付きまとう。それでも観客や俳優自身が「子供を演じている」といえるのだとしたら、それはつまり、「演じる」ということと「別の誰かになる」ということは似ているようで全然ちがうことだからなんじゃないだろうか。

逆から考えてみれば、大人である俳優と本物の子供とのギャップ――いいかえれば、この埋めがたい「あいだ」こそが「演じる」ということを成り立たせているのではないかという気もする。
たとえば、俳優・緑川岳良はかつて児童会選挙に立候補した少年・緑川岳良を演じる。演じることによって緑川岳良というひとつの存在に「あいだ」が生まれ、ひとつの身体のまま俳優・緑川岳良と少年・緑川岳良というふたつの存在に分かれる。そのふたつの存在は観客の想像力のなかで重なったり近づいたり離れたりする。もちろん、ほかの演技者が子供を演じるときにも同じことが起きている。だからもしかしたら『子供を演じることのいくつかの考察』(あるいは劇場という場所)は、その「あいだ」をなるべくふくらませて、みんなで見つめようとした場だったということができるかもしれない。

先の「演劇という方法で物語を表現することはいったい何がおもしろいのか」という問題も、やっぱりこの「あいだ」が結構大事なところを握っている気がする。その物語がどんな人たちによってどんなふうに演劇化されるかということは、どんなふうにその物語との「あいだ」をつくるかというふうに言い換えられるように思われる。

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まあ「なんのこっちゃ」という話でしたが、今回は本公演のための試演ですし、何か次につながれば……ということで掲載させていただきました。

とはいえ、こんなことを書いて「今回観られなかったから本公演を観てもついていけないにちがいない」などと思われてしまっては困るので、ちょっとでもそんなふうに感じた方はぜひ本番の記録映像をご覧ください。

3月17日の回 : 前半 / 後半
3月18日の回 : 前半 / 後半


今回のC.T.T.公演から6月の本公演がどんなふうにつくられていくのか、おそらくウォーリーさんも含めてまだ誰にも分かりません。

まだまだ先の読めない呼吸らの展開に今後もご注目ください!




2013年3月17日日曜日

【2013/3/16】明日はCTT本番

おはようございます。
「明日は本番」というタイトルなのに本番当日の更新になってしまいました。ご容赦ください。


本番前日の夜7時、いつもの稽古場から歩いて数分の公民館に呼吸らメンバーが集合。
今日の稽古場は「和室2」。大体20畳くらいの決して広くはない空間です。
玄関のようなスペースをはさんで向かいには別の団体が使っている「和室1」があることもあって、「あんまり大きな音は出さない方がよさそうだね…」と言いながら準備していると、その「和室1」から聖歌のようなコーラスが…!!
厳かなBGMに包まれながら、CTT本番に向けた呼吸らの最後の稽古がスタートしました。


この日は本番に向けた最後の稽古でしたが、場所の小ささもあり、本番と同じように芝居をすることはせず、細かく段取りを確認しながら最後の場面をつくっていきました。

今回の上演はひとつのテキスト(福永信『星座から見た地球』)から各々が出したアイディアをセッションさせていくような方法でつくられている(と察してます)ので、みんなの理解を統一してくれる台本がありません。いってみれば全体を把握できるような設計図を持たずに共同作業をしている状態なので、実際のところ各々が自分で何らかのキッカケを見極めて動いたり台詞を言うようにしています。そのため何が飛び出すか読めない面白さがある一方、ウォーリーさんが演出として考えている「ねらい」と出演者の認識にズレが出てきたり、芝居がブレて迷走してしまう可能性も孕んでいます。
最初の段取り確認ではそうした「ズレ」や「ブレ」を摘んでいくように、それぞれが何をキッカケに次のアクションを始めているのか口に出してもらいながら、ウォーリーさんがあらためて場面の「ねらい」や変更を伝えていくかたちで進んでいきます。

一見するとそれぞれが勝手なことをしているように見えなくもない芝居ですが、よくよく見ているといくつかのグループがあって、多層的に舞台を構成しています。それらのグループはひとつの動きや語り、あるいはスキット(=小芝居)のようなものから生成され、おたがいに接触したり干渉したりしながら、気がつくと消えていたり別のグループに変化したりしていきます。
それこそ移り気な「子ども」たちの遊びを見ているような感じですが、ウォーリーさん曰く、枠組みとしては子どもを演じるということについての「研究発表」。なんだか構造がまた複雑になったような印象があるかもしれませんが、実際の稽古を観ていると頭のなかで整理するまでもなく直感的にわかるようになっているから不思議です。

(本日の演出席はアクティングエリアに食い込んでおります)

段取りの確認と変更の作業が進んでいき、いよいよラストシーンを決める段階へ。
さちさん以外の全員が伝さんの語りに合わせて眠りにつき、さちさんがみんなの呼吸音をマイクで拾っていきます。ここでウォーリーさんからさちさんに「伝さんの語りのあとに「子どもを演じてみた本日の感想」をマイクで語ってください」という指示が。「もちろん内容はその回ごとに違ってていいから」とウォーリーさん。「研究発表」という側面をもう一度見せるのがねらいのようです。
突然のオーダーにさちさんがやや困り気味に「今日は子どもを演じるということで……子どもを演じてみました。……」と語り始めると、今度はそのさちさんにちょっかいを出すように伝さんに指示。ますます困るさちさん。
さらに今度は「眠っているみんなの呼吸音が森の音になるようにしてほしい」とオーダー。「森の音……?」と戸惑うみなさんへの説明もそこそこに、菊池さんには「みんなの森の音に合わせてこれを鼻歌でうたってほしい」とiPhoneからシューベルトの『「冬の旅」第一曲「おやすみ」』を再生。(ぜったい和室1のコーラスに影響されたんだ……)とその場の全員に思われながら、ドイツ語歌詞におののく菊池さんに「鼻歌でいいので、とにかくこういうピアノ曲っぽいメロディでお願いします」とフォローを入れるウォーリーさん。こうして静謐な空間に深みが加えられていきました。
そしてラストは暗闇のなかでさえさんが『星座から見た地球』の一編を朗読することに。伝さんが本を持つさえさんの手元を懐中電灯で照らし、読み終わるとともに懐中電灯が消されます。
何ともいえない余韻の残るラストシーンになりました。


その後、カーテンコールから退場までの流れを簡単に決めて、この日の稽古は終了。
机や小道具を片付けたのち、当日のタイムスケジュールやら持ち物やらの連絡があり、そしてウォーリーさんから6月公演やその後に向けたお話がありました。

ウォーリーさんとしては「このクラスでやっているアンサンブル的な手法をもっと練り上げていきたい」とのことで、さしあたり6月に向けては、もっと個別のドラマを立ち上げて、それをアンサンブルにしていくことを考えているそうです。
また、ゆくゆくはいわゆる普通の戯曲(会話劇スタイルのドラマ演劇)に対しても従来のように戯曲の世界を再現するのとはちがうかたちのアプローチを見出していきたいという思いもあり、その作業をこのアクターズラボでやってみたいのだそうです。

僕からざっくり補足をすると、歴史的に演劇は(文学の一部として)戯曲中心に扱われてきました。それこそ演出家という役割が登場したのも実は近代以降のことであって、そこには写真・映画・蓄音器などの視聴覚的な記録技術(=メディア)の発達によって人びとの生活様式やモノの見方・考え方が変化したことの影響が少なからずあります(あくまで演劇に関係する部分についてのざっくりした補足です)。そうした変遷が現代に至ってとんでもないことになっているのはいうまでもないことですが、現代演劇もその変遷に則り、歴史的な戯曲中心のアプローチから脱却して新しい戯曲との付き合い方を探ったり、戯曲の役割自体を見直したり、従来的な戯曲を使わない方法をとってみたり、ダンスや音楽や美術や映像とミックスしてみたりと、いろんな試みがなされています。

かなり専門的といえば専門的な話ですが、本当に「ラボ」という感じがしてワクワクしてきます。

ウォーリーさんは他にも「地域社会と結びついた活動であること、呼吸らという集団が高槻という地域から生まれた劇団だということにもすごく大きな意義がある」というお話もあり、いろんな部分で広がりと可能性のある試みになりそうな予感がします。


とりあえず今日と明日の本番、その片鱗を感じてもらえればと思います。
それでは劇場でお待ちしています!!!




2013年3月12日火曜日

【2013/3/11】通し、返し、返し通し…

読者のみなさん、はじめまして。東京で奮闘する伊藤さんの後任の森です。
今後このブログもしばらく僕の目線からのご報告となります。
なるべく分かりやすくお伝えできるように努めたいと思います。どうぞよろしくです。


さてCTT本番まで、この日を入れて稽古はあと2回。
一応そのスケジュールは知っているものの、ウォーリーさんとも呼吸らのみなさんとも初対面の自分…。
本番近いし、もしかして結構ピリピリしてたりして…と緊張しつつ、まあなるようにしかならないでしょ!と気を取り直しつつ、開始時間まで身の置き場に困りつつ。

開始時間となり、ウォーリーさんに促していただくかたちでお互いに自己紹介。
みなさん気さくな人たちのようでひと安心。

安心したところでウォーリーさんから「それじゃ3分後に通しを始めます」。
…はい、とりあえず内容とみなさんの顔と名前を頭にたたきこみます!


というわけでこの日は通し稽古に始まり、場面を止めて手直ししながらの返し稽古、少しずつ返しながらの通し稽古と進んでいきました。




最初の通し。
僕が制作過程を知らない上に初見だったせいも多分にあったのだと思いますが、作品全体のイメージ・世界観といったものや各々の動作はかなり具体的に整理されているものの、それらがやや断片的で、ひとまとまりの全体として見えてこないといった印象がありました。あえてまとまりは求めずに実験に徹する方向なのかなあ、なんてことも勝手に想像したりしながら、名前と顔を覚えるのに必死だったこともあり、いまひとつ入り込むことができず……。

通しを終えて、ウォーリーさんによるダメ出しの時間。
内容は概ね以下のとおり(名前の間違いがあったらごめんなさい!)。

「冒頭は伝さんとYAKOさんのあいだに何かが起こるまで、ようこさんは出てくるのを待って下さい」
「ようこさんの最初の一言、“A”というアルファベットがちゃんとお客さんに分かるように何か工夫を考えてみてください」
「小道具の奪い合いをする際、<奪った/奪られた>というアクションにメリハリをつけてください」
「かなえさんが文集を読みながら歩くとき、肩に顔を乗せてうしろから覗き込んでくるさっちゃんの動きを連動させてください」
「菊ちゃんがマイクでDの話をするときなんだけど、喋りながら身体を動かして何か動きを付けられないかな」
「カルタ取りに場面が変わるところは今木くんの動きをきっかけにしよう。今木くんとしては最初は猫としてカルタに手を出してくれていいんだけど、そこに他のひとも加わっていくうちにカルタ遊びの動きになっていく感じで」

本番が近いこともあってか、ウォーリーさんのダメ出しは「出演者の芝居を詰めていく」というより「舞台上のレイアウトを探っていく」という感じで進んでいきます。




それらのダメ出しを受けて、もう一度はじめから場面を追ってみることに。
「指示した部分は言ったとおりにやってみてください」とウォーリーさん。
途中何度も止めてアイディアを出しては返し、舞台全体がどんなふうに見え方が変わるか、全体にどんなグルーヴが生まれているかといったことを探っているようです。

ウォーリーさんのオーダーは、ねらいは具体的でありながら、その方法や手段についてメンバーに任せていることが少なくないように感じます。そこで実際にどんな動きをするのか、どんなことを言うのか、その余白の部分は各々が即興で対応していきます。
そこですごいのは、芝居を止めてしまったり、何もできずにフリーズしてしまったりするメンバーがいないこと。頭で整理できていなくてもやってみるし、周りもそれを受け取ってつないでいく。当たり前のことのように思われるかもしれませんが、決して簡単に成り立つ状態ではないと僕は思います。


そんなふうに様々な変更と調整を経て、最後にあらためてはじめから通してみました。
途中でウォーリーさんから新しい提案が出されたり、メンバーの近くに行って耳打ちしたりすることはあったものの、あまり長く立ち止まることなく芝居は進んでいきます。
この日の最初の通し稽古とくらべて、この返し通しでは随分まとまりが出てきたというか、少なくとも観ている側として、舞台の「重心」のようなものとその「重心の移動」がとても明確になったように思いました。
まあ他にもいろいろ書きたいこともなくはないのですが、いまいち言葉にまとまらないのと、何より本番が近いので、あとは乞うご期待!ということで……。


というわけで、あらためて公演情報を貼り付けておきます。
読者のみなさま、あるいは検索してここにたどり着いた方々、是非お誘い合わせのうえアトリエ劇研までお越しください!


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vol.101上演会
3月17日(日)17:00
3月18日(月)19:00 *両日とも終演後合評会
上演協力金900円(前売り・当日共)

出演団体(50音順)
呼吸ら『子供を演じることのいくつかの考察』
突き抜け隊『Twilight Zone』
詳細: http://cttkyoto.jugem.jp/?eid=121
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劇場でお待ちしています!!!

2013年3月4日月曜日

いくつかの考察、スコア

この日は、伊藤が講師をつとめました。ウォーリーさんは別件で不在。
オペラを演出するらしいですよ!
http://ticket.pia.jp/pia/ticketInformation.do?eventCd=1253652&rlsCd=001

ということで、CTT京都試演会、記念すべき101回目の試演会参加に向けて、クリエーションしていきました。台本が一切無い状態で進めています。即興的要素が多いとはいえ、枠組みが無いと、さすがに本当のガチ即興になってしまうということで、色々と枠組みを決めていきました。音楽的な作品にしたいこともあり、この枠組みを僕の中で、スコアって呼ぶことにします(オペラ演出をしたウォーリーさんのインスピレーションもあって)。

で、この日はほとんど稽古稽古で、ipadにメモを取れず、後から写真を元に記憶を戻し、皆さんに共有で送ったメールがありますので、そちらを以下貼り付けてみたいと思います。とその前に、CTTの情報をこちらにも貼り付けます。

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vol.101上演会
3月17日(日)17:00
3月18日(月)19:00 *両日とも終演後合評会
上演協力金900円(前売り・当日共)

出演団体(50音順)
呼吸ら『子供を演じることのいくつかの考察』
突き抜け隊『Twilight Zone』
詳細: http://cttkyoto.jugem.jp/?eid=121
===

上記がCTTに関する情報です。赤字にしてみました。
そして以下、僕が送ったメールです。それではまた。

===

皆様

お疲れ様です。伊藤です。
さて、先日おこなった稽古ですが、段取りの確認でメールしています。

==子どもを演じるためのスコア==
1.Yako(板付き)
2.伝 (板付き)
3.ようこ:Text1(下手から入る)
*Textは2回読む。読む場所は指定済
*そろばん音→ビー玉、伝本でバランスを取る
4.かなえ(下手から、上手でもよいかも!):文集
*文集に行くまでに、コンタクトをとる、読み時の身体に工夫を
5.さっちゃんフリー
*いらっしゃいませ、といった会話でのコンタクトは良かった
6.菊ちゃん:Text8(読み箇所指定済み)
*マイクか生声か悩む
7.今木:猫(上手)
*6とコンボ、5のフリー状態を止めるように入る
*菊ちゃんのセリフ17行目「必ず・・・」辺りで、伝のカルタ遊び
*カルタ遊びの箇所に関して、今は集合体になりすぎちゃったので、色々と工夫されるはず!
8.浦瀬:「演じると言うこと」(上手、舞台上を大きく回りながら)
9.さえこ:動きでのフリー
10.がくりょう:演じると言うこと(下手から舞台中央へ)
*山場がここにくる、カオス?
11.てい:カオスをブレイク
*ブレイク方法は、色々試行錯誤
12.さっちゃん、マイクでみんなの寝息を拾う

その後、自由タイム
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課題
・シャボン玉やりたい
・郵便屋さんやりたい (1枚、2枚、3枚・・・)
・感情(笑い)での連鎖 (前回はYakoさんが積極的にやっていました!)
・セリフでのやり取り(AとA'じゃなくて、AとBが話しているような。「あめだ!」「あめだ!」ではAとA'。「あめだ!」「傘あげるよ!」とかだとAとB、みたいな。もちろん、AとA’で面白い場面もあるはず)
・枠組みを与えられることで、そのことだけに忠実になると、みんなが同じ方向に集まりやすい。良い意味で、舞台空間と距離をとってください。一緒にいるような、いないような。
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前回の映像です。
http://www.youtube.com/watch?v=r9eU8Y1b29E
http://www.youtube.com/watch?v=O7JF4_JfvHA
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以上です。

ということで、僕はちょっと抜けますが、よろしくお願いします。
僕はここに関わってます。
http://www.parco-play.com/web/play/lemming/cast.php

CTTにいけないことが本当に残念でしょうがないです。
映像撮影すると思うので、それをまた是非見せてください。

5月に会いましょう!!!!!!!!!!!!!!!!