2012年11月17日土曜日

路上を経て


11月17日(土)の路上演劇の様子

前日の金曜日に、最終練習をしました。
19時22時でしたが、あっという間に終わり。

そして当日、9時半集合、パフォーマンス箇所を最終チェック。しかし、生憎の雨。雨脚はさほど強くないものの、晴れることは無い状態。(ほとんど誰も天候のことを気にしなかったのが異常なぐらい。)

それぞれの場所を確認して、気づいたら11時のパフォーマンススタート。段取り等々、かなりバタバタする。事前に小道具仕込み、バラシ等のタイムテーブルを詳細に決めていなかったことを悔やむ。12時何とか1回目パフォーマンス終了。その後の反省会で充実した話し合いを持ち、大幅に1回目のパフォーマンスを変更。具体的には、後半の1箇所を全カット。そのことで、流れがスムーズに。また、集団行動の精度をあげるためのいくつかのポイントを確認しあった。

集団行動パフォーマンスで行ったこと
・最初の案
全員がマスクを被って、移動する。面白いもの、人を見つけては、そこに集まる。少し中腰状態で、首をキョロキョロさせている。リーダーを入れ替わり立ち代わり変える。

・2回目で改善した点
傘など移動の邪魔になるものを無くす。雨が降っているのでカッパを着る(衣装になった。)
リーダーがくるくる変わるのではなく、動きを先導できる人をリーダーに固定させる。

所感
リーダーによって、動きの統率がかなり変わる。そこには人の個性が関係するだろう。演出の狙いとしては、全員がリーダーになれる事だったが、リーダー養成講座のようなことを根気よく繰り返さない限り、人の最初からもっているそれぞれのセンスだけではセンスのあるリーダーになれない。センスとは、リズム感覚であったり、客観的な自分への目線。特に、客観的な目線(秘すれば花by世阿弥)は重要。路上に飛び出ることで、なおのことをそう思う。何かをしようと思えば思うほど、人は周りを見なくなる。劇場では、決められたセリフだけでは、その事を感じることはできないのではなかったか。そういう意味で、パフォーマーが得たものはかなり大きいだろう。

2回目パフォーマンス
要所要所で決める場所のポイントを作ったことで、1回目よりもパフォーマンスらしくなる。日常の中に突然非日常が侵入してくるような。外からみればかなり怪しい団体。しかし、怪しさの中に、ユーモラスがある。「怪しい」を突き詰めて、「怪しすぎて興味をそそる」状態。中途半端が一番よくない事を、参加者は恐らく肌身に沁みて感じたはず。たとえ下手ウマでも、下手ウマへの過剰なエネルギーの傾注がある。

観客とのコミュニケーションについての仮説
・通常の理解を越えたものを媒体にしたコミュニケーション(マスク集団行動)
・通常の理解ができる媒体でのコミュニケーション(階段音楽、石の上にも三年)
観客が、作り手よりも上位に立つのが、通常の理解ができる範囲でのコミュニケーション。フリーハグなどもその類? そこでは、観客の能動性が求められるが、観客の能動性を発動させる仕掛けを作り手は考える必要がある。通常、人は能動的になることを恐れる。その事を前提すべきである。観客の能動性は、あくまでも当の本人にとっては、あたかも自発的に感じられるべき。
一方、理解を越えたものを媒体にする場合、そこにはまず受け手の心理的な驚愕がある。それはつまり、受け手は少なからず作り手の下位に立ってしまうということだろう。能動性が発動し辛い状態。ある意味で心理的に不利になった状態では、作り手に自動的な反応をせざるを得ない。マジックが喜ばれるのも、サーカスが喜ばれるのも、同じ原理? 下位にある状態(ある意味でまな板の上の鯉)だからこそ、その作品が受け手にとって害が無いと了解された途端、受け手の驚きは一周回って嬉しさに変わる。マジックで自分の1万円冊が燃える時、人はそれがちゃんと元に戻ってくることを前提にしている。だから、それを楽しむことができる(準備がある)。

おそらく観客は、作品に甘んじ得る状況を、密かに欲している。観客が何かを見つける前提には、作り手が何かを見つけてもらうための意図を少なからず持っているということ?

路上パフォーマンスで得たものは、非常に大きかったと思います。

写真

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